ダイドー館
90台


ミニカーを飲み物のおまけを始めたのがこの
ダイドーデミタスから。。。
1/100 ナビ ミニチュアカー コレクション 全20台
1/100 ナビコレ+70’sスペシャル 全13台
1/64 フェラーリミニカーキット vol.1 2台
1/64 フェラーリミニカーキット vol.2 全10台
1/64 徳大寺有恒が選ぶ!! 俺のこだわり名車 全25台
1/64 フェラーリF1ミニカーキット vol.1 全10台
1/64 フェラーリF1ミニカーキット vol.2 全10台




ダイドーデミタスコーヒー
NAVI MINIATURE CAR COLLECTION
全10種×2色
期間:2002年3月18日~
内容:ダイドーデミタスコーヒー1缶に1個もれなく付いてくる。
このキャンペーンは、商品のノベルティとして、20世紀の国産名車のダイキャスト製ミニカーを付属するもので、日本を代表するカー雑誌「NAVI」による「日本車オブ・ザ・センチュリー」の中から選ばれた、スバル360等、10車種を、缶トップにつけたキャップに入る最大の大きさで(約1/100サイズ)、実車に忠実かつ精巧にモデル化しました。
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来夢音の購入記
ミニカーを集めだした頃に集めだしたもの。ヤフオクでのGET。サイズもイマイチばらばらでミニカーとしては。。。ではありますが、今となっては国宝級か!? パジェロは、ジムニーにしか見えません。おすすめはユーノスロードスターでしょう!
軽自動車という日本独自の枠のなかでつくられた、世界に誇れる傑作車。航空機技術を応用した軽量モノコックボディ、空冷2ストローク2気筒エンジンによるRRレイアウト、全輪独立懸架など、徹底して合理性を追求した設計は、優れた走行性能と乗り心地を実現した。42万7000円の価格も、庶民に「マイカー」の夢を近づけた。
SUBARU 360 スバル 360
1958
二輪の分野では、すでに世界を制していたホンダ初の四輪乗用車。世界ロードレースGPを接捲したワークスマシン譲りの直4DOHC4キャプレターという、当時としては常識破りのハイメカニズムをもつ531ccエンジンは、欧米で「時計のように精巧」と評された。後輪のチューンドライブも二輪メーカーらしい発想だった。
HONDA S500 ホンダ S500
1963
トヨタが総力を結集して造り上げた本格的なグランツーリズモ。全高わずか1160mmというボディに直6DOHC2?エンジンを搭載。最高速度220km/hと日本車で初めて200kmの壁を越えた。ほかにもリトラクタブルライトや四輪ディスクブレーキなど多くの「日本初」の試みを搭載。007映画主演の栄誉にも浴した。
TOYOTA 2000GT トヨタ 2000GT
1967
カーデザイン界の巨匠ジウジアーロの手になるきわめて美しく、豪華な4人乗りの高性能クーペ。初期のモデルは月産50台のペースで入念にハンドメイドされたボディに直4DOHC1.6?エンジンを搭載。172万円の価格は当時の国産同級車の2倍以上だった。後に量産化され、13年の長きにわたって作られた。
ISUZU 117 COUPE いすゞ 117 クーペ
1968
トヨタがヨーロッパの高級GTを目標に開発したスペシャリティカー。クリーンな2ドアクーペボディに新開発の直6DOHC2.8?エンジンを搭載。性能のみならず快適性もセールスポイントで、豪華な室内には日本初となるデジタルメーターが輝いていた。高価格にもかかわらずヒットし、ハイソカーブームを巻き起こした。
TOYOTA SOARER 2800GT トヨタ ソアラ2800GT
1981
ワイド&ローのスタイリッシュなプロポーションで一世を風靡したFFスペシャリティカー。新設計の直4SOHC1.8?エンジンや4輪アンチロックブレーキなど注目すべきメカニズムを備えていたが、それよりむしろソフトでファッショナブルなイメージが女性を中心とする若年層に強く支持され、「デートカー」なるジャンルを切り開いた。
HONDA PRELUDE ホンダ プレリュード
1982
軍用あるいは作業者というそれまでの国産四輪駆動車のカラーから脱した、根本からレジャー指向のクロスカントリー4WD。シャシーは前輪独立懸架の備え、エンジンも新時代のターボディーゼルを中心にラインナップ。快適装備も乗用車並みかそれ以上で、アウトドアブームとも重なってブレイクし、多くのフォロワーを生んだ。
MITSUBISHI PAJERO ミツビシ パジェロ
1983
源流たるスポーツセダンへ回帰した8代目スカイラインの頂点として16年ぶりに復活したGT-R。直6DOHC2.6?ツインターボエンジン、電子制御トルクスプリット式4WD、スーパーHICASなどのハイテクを満載した超弩級のスーパーマシン。GT-Rの伝説に恥じず国内グループAレースは完全制覇、海外でも活躍した。
NISSAN SKYLINE GT-R ニッサン スカイラインGT-R
1989
小型・軽量で安価なオープン2シーターという、50~60年代に隆盛を極めたライトウェイトスポーツの概念を甦らせたモデル。日本の好景気とマツダの英断から生まれた奇跡ともいうべき存在で、これなしには90年代以降のオープンスポーツの隆盛はありえなかった。世界のスポーツカー史にその名を刻まれるべき傑作である。
EUNOS ROADSTER ユーノス ロードスター
1989
F1を制したホンダが、フェラーリ、ポルシェが割拠する高級スポーツカー市場に叩き付けた挑戦状。総アルミモノコックボディにV6DOHC3?エンジンをミドマウントしたホンダテクノロジーの集大成で、走行性能、実用性と信頼性ではライバルを凌いだ。発表から10年以上を経たいまなお改良を続けながら現役の座にある。
HONDA NSX ホンダ NSX
1990




ダイドーデミタスコーヒー
NAVI MINIATURE CAR COLLECTION+70's スペシャル
全10種+3
2002年4月1日より2003年3月31日まで行われたダイドーポイントカードのプロモーション企画で、ダイドードリンコ自販機から発行のポイントカードに景品に応じたポイントをためてダイドードリンコキャンペーン事務局へ送るともれなく様々な商品が当った。
ミニカーは100ポイントためると13種類の中から3種もらえた。(車種は選べない)。
専用の箱付き。中身はデミダスミニカーコレクション第2弾の賞品だった13台セットのバラ。ダイドーNEWSへ
MAZDA SAVANNA RX-7
マツダ サバンナ RX-7
NISSAN SKYLINE HT2000GT-R
ニッサン スカイライン
HT2000GT-R
NISSAN FAIRLADY 240-G
ニッサン フェアレディ
240-G
SUBARU 360
スバル 360
HONDA S500
ホンダ S500
TOYOTA 2000GT
トヨタ 2000GT
ISUZU 117 COUPE
いすゞ 117 クーペ
TOYOTA SOARER 2800GT
トヨタ ソアラ2800GT
HONDA PRELUDE
ホンダ プレリュード
MITSUBISHI PAJERO
ミツビシ パジェロ
NISSAN SKYLINE GT-R
ニッサン スカイラインGT-R
EUNOS ROADSTER
ユーノス ロードスター
HONDA NSX
ホンダ NSX






DyDo フェラーリ vol.1
キャンペーン期間
第1弾 2003年3月初旬~6月20日
第2弾 2003年6月21日~9月20日
Wチャンス
第1弾 プレミアムミニカー(360 Spider)1台+オリジナルジオラマケース(1万セット)
第2弾 プレミアムミニカー(330P4)1台+オリジナルコレクションケース(22台収容可能/1万セット)
来夢音の購入記
1/64フェラーリミニカー全てはここから!
DyDoフェラーリコレクション、vol1は京商ものとダブらないもの2台を購入。275GTBはフェラーリ4で登場しますが。。。
vol.2は京商フェラーリコレクション2が出る前だったので全10台を購入。
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製造 サイズ 全10車種
京商 1/64 DyDo非売品
フェラーリにとって最初の本格的レーシングカーと言える存在。その名の通り1948年のミッレ・ミリアを制し、翌1949年のル・マン24時間で優勝を勝ち取りフェラーリの名を世に知らしめたモデル。 250GTの発展型として1964年のパリ・サロンで発表。ギアボックスをリアに配し前後重量バランスに優れるトランスアクスル方式をフェラーリのロードカーで初採用し、操縦性を大きく向上させた。
166 MM
M00597
1948 275 GTB
M00958
1964
DyDo フェラーリ vol.2
製造 サイズ 全10車種
京商 1/64 DyDo非売品
250GTの進化型は、ホイールベースを200mm縮めて運動性能を向上させると共にディスク・ブレーキを備えたSWB(ショート・ホイールベース・ベルリネッタ)と名付けられ、GTレースで大活躍した。 ルッソとはラグジュアリーを意味するイタリア語。250GT SWBロードバージョンの後継モデルとして送り出された。レース用ではなくグラン・トゥリズモとして開発されただけに、優雅な雰囲気が特徴。
250GT SWB
M00959
1959 250GT Lusso
M00960
1962
フェラーリ・コンペティションGTの中で、希少性とレーシング・ヒストリーから最も高い人気を誇るのが250GTOだ。合計39台が製作され、後期型は250LMに似たより戦闘的なスタイリングを持つ。 250GTOの発展型として送り出されたフェラーリGT初のミッドシップ・マシーン。FIAの公認が取れず、プロトタイプ・クラスで参戦。車名となった1965年のル・マン24時間で見事総合優勝を果たした。
250GTO
M00115
1962 250LM
M00961
1963
275GTB/4の後継車として登場した第一世代最後のフロント・エンジン・ベルリネッタ。エンジンは4390ccまで拡大され最高速度は280km/h。ピニンファリーナによるモダーンなスタイリングを持つ。 現代に至るまでフェラーリの主力モデルとして君臨する8気筒ミッドシップ・ベルリネッタの最初のモデル。ウェッジ・ラインを基調としたスタイリングは、ピニンファリーナがデザインを担当した。
365GTB/4
M00949
1971 308GTB
M00964
1975
1984年のパリ・サロンで華々しくデビューしたのがテスタロッサだ。スリットを多用した斬新なスタイリングは、世界中で大反響を呼んだ。テスタロッサの名称どおりカムカバーは赤く塗られている。 フェラーリのV8ミッドシップ・ベルリネッタで初めてモノコック・シャシーを採用した348シリーズの最終進化型がGTBだ。20bhpのパワーアップがなされると共に、各部に大幅な改良が施された。
Testarossa
M00966
1984 348GTB
M00967
1993
誰にでも運転できるフェラーリを基本コンセプトに1994年に送り出されたのがF355である。1997年にはパドルシフトのセミATのF1マティックが追加され、記録的なベストセラー・モデルとなった。 550マラネロの進化型として2002年2月にマラネロで行われたスクーデリア・フェラーリのラウンチで発表。排気量の拡大に加え、V12モデルとして初めて2ペダルのF1マティックを採用している。
F355
M00968
1994 575M Maranello
M00969
2002






DyDo
徳大寺有恒が選ぶ!! 俺のこだわり名車
全20台+Wチャンス5台
キャンペーン期間:2003年10月21日~2004年1月20日
徳大寺有恒が選ぶ!!俺のこだわり名車
ミニカーキット(1/64スケール)20種 合計100万台
Wチャンス:プレミアムミニカー5台
(1/64スケール)+コレクションケース 1万セット
※プレミアムミニカーは組立てた状態

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HINO CONTESSA 1300 COUPE
M00556
NISSAN BLUEBIRD 1000
M00557
PRINCE GLORIA
M00558
TOYOPET CROWN RSO
M00559
NISSAN CEDRIC
M00560
SUBARU 360
M00561,M00562
MAZDA R360 COUPE
M00563,M00565
家族4人を乗せて時速100kmで走行できるクルマ、これはドイツのVWビートルの設計目標であるが、この例にならい昭和30年に通産省が考えたのが「国民車構想」といわれるものであった。この難問に旧中島飛行機から分かれたスバルは、スバル360で応えた。360ccの2ストロークエンジンを持つ見事な正解である。 マツダのデザイナー、小杉二郎はきわめて優秀な自動車マンであった。この小杉がデザインしたマツダR360クーペは、基本は2人乗りで後席に子供用シートのある2ドアクーペであった。このクルマの360ccの4ストロークエンジンには、トルクコンバーターによるオートマチックトランスミッションもあった。全長2.98m、幅1.29mの小さなボディだったが、見事なパーソナルクーペに仕上がっていた。

1963年5月、新装になった鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリ自動車レースが行われた。マツダR360クーペはこのレースに出場、スバル360、スズライトフロンテとともに走り完走した。以後マツダのモータースポーツへの傘下の先駆けとなったクルマは、マツダR360クーペなのである。このマツダR360クーペ以来、マツダはモータースポーツに参加し続け、1991年ル・マン24時間レースに優勝する。日本では唯一にして無二のル・マンウィナーである。

ISUZU BELLETT 1600GTR
M00564,M00566
Honda S600
M00567,M00568
1964年、いすゞベレットは当時盛んになったマイカーブームに乗り、ヨーロッパ流のクルマとして発売された。このベレットをベースにつくられたのがDOHCエンジンを持つベレットGTRである。2ドアクーペボディに1.6?、DOHCユニットを与えられたベレットGTRは当時のいすゞワークスチームの浅岡、米村などのドライブで各種レースに活躍した。イギリス流のクラブマンレース車として、このクルマはひとつのエポックメークであった。 ホンダが4輪車をつくる、それは当時センセーショナルな話題であった。はたしてホンダの乗用車マーケット参入第1号はスポーツカーであった。ホンダS500、S600、このクルマは4気筒、DOHC、4キャブレーター、ニードルローラーベアリングという凝りに凝ったメカニズムで、しかも多くの人々の予想を超える安さだったからだ、たちまち若者のハートをつかんでしまった。ボディはオープン2シートで、後にクーペ版も加わった。
TOYOTA SPORTS 800
M00569,M00570
NISSAN BLUEBIRD 1600SSS
M00571
NISSAN BLUEBIRD
RALLY TYPE

M00572
トヨタ パブリカの設計者、長谷川龍雄氏は飛行機屋だった。だからパブリカは軽量設計だった。このパブリカをベースにしたトヨタスポーツ800はアルミニュームを多用し軽くつくられていた。この時代ホンダS600はスチールボディで重かったが、DOHCエンジンで高性能を持っていた。この両者の争いは短距離レースではホンダ、長距離レースでは燃費のいいトヨタが制した。コンセプトの異なる2つのスポーツカーはお互いに良きライバルだった。 トヨタスポーツ800は軽量設計に加え、空力特性にも秀でていた。このため燃費に秀で、長距離レースではしばしば勝利を得ていた。空冷の800cc、2気筒ユニットはBMWのコピーだったがよく走った。鈴鹿1000kmなどで大活躍したのは、このクルマのコンセンプトが正しかったからである。後にトヨタは2000GTを登場させるが、私個人としては2000GTよりパブリカを基点とするトヨタスポーツ800の方が、よりスポーツカーらしく名車であると思っている。 当時のマイカーの主流はニッサン ブルーバード、トヨタ コロナクラスだった。この2車はBC(ブルーバード・コロナ)戦争といわれるくらい激しい販売合戦を繰り広げていた。そのBC戦争に終止符を打つべくニッサンが計画したクルマがブルーバード510型、スーパーソニックラインのスタイル、セミトレーリングアームのリアアクスル、OHCユニット、すべてが新しく世界最新の技術であった。対するコロナは丈夫さのみが武器のクルマだったが、平凡なコロナがBC戦争を制する。ユーザーがまだ未知だったからだ。 ニッサンは現在でいうWRCラリーに熱心であった。イースト・アフリカン・サファリをはじめ、モンテカルロラリーにも挑戦した。出場車はスポーツカーのダットサン240Zが多く時おり510ブルーバードが使われていたこともある。特にイースト・アフリカン・サファリでは強く、ニッサン車のタフな性能を誇示した。当時のブルーバードSSS(スリーエス)にはサファリブラウンなるカラーもあったほどだ。クルマはブルーバードSSSのクーペ、武骨ながらかっこいいスポーツクーペであった。
TOYOTA 1600GT
M00574
TOYOTA 1600GT レース仕様
M00575
TOYOTA CELICA 1600GT
M00576,M00577
トヨタ独自のDOHCエンジン、9Rはトヨタ1600GTに与えられた。9Rエンジンを持つ1600GTは5速がGT5、4速がGT4と呼ばれ、当時の円スージャケットの憧れとなった。1600GTの性能は110馬力、14km/?、最高速度175km/hというものであった。トヨタはこの1600GTで積極的にレースに参加し、1968年の日本グランプリをはじめ、いくつかのタイトルをものにした。 DOHCエンジン、9Rをレースチューンした1600GT。当時トヨタはこの1600GTでレースに出場し相応の成功をおさめた。所詮は1966年のクラブマンレース富士大会で、後に1600GTとして発表されるRTXが1位、2位でデビュー戦を制し9Rの威力をみせつけた。翌1967年は日本初の12時間耐久レースとなる鈴鹿12時間でタフさも誇示し、1968年には第5回日本グランプリを勝ちとった。 USAフォードのスペシャルティカー、マスタングとUKフォードの同じ企画のカプリの成功に触発され、トヨタがつくった日本初のスペシャルティカーがセリカである。ボディデザインは当時のクライスラーのスペシャルティカーに影響を受けたものだったが、後にフォードマスタングに似る。トヨタはこのセリカをUSAに輸出用として成功させる一方、国内においてはGTとしてモータースポーツに積極的に参加する。エンジンはヤマハの2TGを持つ。
NISSAN SKYLINE 2000GT-R NISSAN SKYLINE レース仕様 NISSAN FAIRLADY 240Z NISSAN FAIRLADY 240Z
RALLY TYPE
スカイライン2000GTのボディ、シャシーにレーシングカー、ニッサンR380のストレートシックス、DOHC、S20エンジンを与えた文字通りの“羊の皮を被った狼”である。これを「GT-R」としてニッサンは市販する。はじめは4ドアスカイラインのボディを使っていたが、後にショートホイールベースのハードトップボディに替える。プリンス自工の至宝、中川一郎氏の傑作S20エンジンを与えられた4ドアサルーンは初代GT-R以外にはない。 プリンス自工はこのスカイライン2000GT-Rを積極的にレースへ参加させる。その間プリンス自工はニッサンに吸収されるが、ニッサンスカイラインになっても快進撃は止まらず、50連勝という記録を打ちたてる。S20エンジンと全輪独立式サスペンションを持つスカイライン2000GTのポテンシャルは、他の追随を許さなかった。レース仕様の巨大なオーバーフェンダーは誰の目にもかっこよく、等しく若者の憧れとなったのである。 1969年にフルモデルチェンジしたフェアレディはクローズドボディの2シータークーペに変身、USA向けは2.4L、ストレートシックスを積み240Zとなる。この240Zはスポーツカーの革命といわれた。オートマチックトランスミッションを持ち、エアコンディショナーも備えた240ZはUSAマーケットで大ヒット。数々のエピソードと販売記録を打ちたてた。 ニッサンは当然フェアレディZをラリーに出場させた。1972年にはモンテカルロラリーに出場、3位に入賞する。フェアレディ240Zはその快適性と走行性能で世界中でヒット作となるが、重いストレートシックスを持つ前エンジン、後駆動の最後のクルマとなった。その後は、ラリーの世界もミッドシップレイアウトのスポーツカーが主流を占めていく。このクルマ以後、スポーツカーのフォルムはファストバック、ハッチバックが主流となっていく。






DyDo フェラーリF1 vol.1
キャンペーン期間
第1弾 2004年3月22日(月)~6月20日(日)
第2弾 2004年6月21日(月)~9月20日(月)
Wチャンス
第1弾 プレミアムミニカーキット(641/2)+オリジナルコレクションケース(1万セット)
第2弾 プレミアムミニカーキットIveco LD-Ferrari first GP 2002(Ferrari F1トランスポーター)(1万セット)プレミアムミニカー(330P4)1台+オリジナルコレクションケース(22台収容可能/1万セット)
来夢音の購入記
はじめてフェラーリのミニカーを購入したのがこのF1シリーズだったと思います。
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製造 サイズ 全10車種
京商 1/64 DyDo非売品
2000年のダブル・タイトル獲得の原動力となったF1-2000は、前年のF399とあまり変わらないように見えるが、実は重心位置を下げ、空力性能を大幅に向上させた新開発のマシーンなのである。搭載されるティーポ049エンジンも、ハイパワーと高い耐久性を兼ね添え、シューマッハのドライブで2000年シーズンを席巻した。 1999年に16年ぶりのコンストラクターズ・チャンピオンを獲得したフェラーリの次なる目標はダブルタイトルを勝ち取ることだった。2000年シーズン用のF1-2000は開幕戦から1-2フィニッシュと順調な滑り出しを見せたが、シーズン中盤は不運が続きマクラーレンに先行を許す。しかしその後の改良により戦闘力を高め、日本GPでM.シューマッハが自身3度目、フェラーリ移籍後初のワールド・チャンピオンを勝ち取る。続く最終戦でコンストラクターズ・タイトルを決め、スクーデリア・フェラーリは21年ぶりの完全制覇を達成した。
F1-2000 M00158 2000
フェラーリのF1マシーンとして初のV10エンジンを搭載したのが1996年用のF310だ。鬼才ジョン・バーナードのオリジナリティあふれるマシーンで、第7戦スペインGPで早くも初優勝を遂げる。モデルは第8戦カナダGPから投入された走行安定性に優れるハイノーズ・タイプ(通称F310/2)で、ベルギー、イタリアで優勝を勝ち取った。 スクーデリア・フェラーリは長らく遠ざかっていた世界一の座を取り戻すため、1996年シーズンはシューマッハとあー場インを迎え、新たな体制で挑むことになった。マシーンもより高い戦闘力を求めて白紙から開発したもので、基本レイアウトは全面的に刷新された。軽量かつ空力特性に優れたV10ユニットを持つパッケージとされ、車名は3リッター10気筒を表していた。しかし耐久性が弱点となり3勝するに留まり、ワールド・チャンピオンはウイリアムズのデーモン・ヒルが勝ち取り、コンストラクターズ・タイトルもウイリアムズのものとなった。
F310 1996 1996
1992年用のF92Aは、独創的なスタイリングが特徴だ。戦闘機を思わせるインテークの造形や2重のフロア・パネルは、ジャン・クロード・ミジョーの発案である。その斬新な姿とは裏腹に戦闘力は低く、スペインGPとカナダGPでの3位が最上位だった。モデルはシーズン途中から投入された横置きギアボックスを採用したF92ATである。 1991年の最終戦を前にプロストが去ったため、スクーデリア・フェラーリは期待のイタリア人ドライバー、イバン・カペリをティームに招き、アレジと共に闘うことにする。しかし意欲作だったはずのF92Aは、コースによって戦闘力が大幅に低下する弱点を抱えており、しかもエンジンはライバル達よりパワーと耐久性の面で劣っていた。そのためこの年はアレジが3位を勝ち取るのが精一杯で、シリーズ4位というポジションがやっとだった。ナイジェル・マンセルを擁するウイリアムズが圧倒的強さを見せ、この年の両タイトルを手に入れた。
F92AT 1992
モデルはジョン・バーナードが手掛け、前年の終盤で大活躍を見せた車輌を基に、1988年の新車輌規定に合わせ改良を加えたマシーン(通称F1-87/88)である。実績ある完成されたパッケージのこのマシーンの戦闘力は高かったが、ライバルのマクラーレン・ホンダはそれ以上に進化しており、フェラーリは地元イタリアで1勝を挙げるに留まった。 1.5リッター・ターボF1の最後となった1988年は、余りにも速くなり過ぎたマシーンを制御するため、最大過給圧は2.5バールに制限され、予選、決勝で150リッターの燃料のみで競われた。そんな中で圧倒的な強さを見せたのがプロスト、セナを擁するマクラーレン・ホンダで、16戦中15戦を勝ち取る記録を打ち立てた。この年は創立者エンツォ・フェラーリが8月14日に90年の生涯を閉じた。その1ヶ月後のイタリアGPでフェラーリは、天井のエンツォに捧げるが如く1-2フィニッシュを果したことは、今もファンの間で語り継がれている。
F1/87 1988
1980年に登場したフェラーリ初のターボF1である126Cの発展型として誕生したのが126C2だ。フェラーリ初のアルミ・ハニカム・カーボンファイバー・モノコックを採用し、初の本格的ウイング・カーとして送り出された。マシーンの戦闘力は高かったのだが、この年は不運なアクシデントが続き、コンストラクターズ・タイトルを取るに留まった。 本格的ターボ時代を迎えた1982年シーズンは、フェラーリにとって喜びと哀しみが同時にやって来た年だった。第5戦ベルギーGPの予選でヴィルヌーブが悲劇的な事故死を遂げ、その原因を作ったピローニも第12戦のドイツGPの予選で選手生命を絶たれるアクシデントに見舞われてしまう。しかし代役を務めたタンベイとベテランのアンドレッティの活躍により、フェラーリは1982年のコンストラクターズ・タイトルを勝ち取った。一方ドライバーズ・タイトルはウイリアムズのケケ・ロズベルグが、ピローニを5ポイント上回り王座にについた。
126C2
M00078
1982
11年振りにダブル・タイトルを手にしたフェラーリは、成功作の312Tをキャリーオーバーし1976年の新規定に対応した312T2を送り出した。スタイリング的には巨大なインダクション・ポッドが無くなり、NASAダクトがコックピット前に備わる点が特徴だ。ラウダの大事故があったがコンストラクターズ・タイトルを得た。 フェラーリは1976年の車輌規定に合わせた312T2を用意し、1975年チャンピオンのラウダは着実にポイントを稼ぎ、終始ランキング1位の座をキープしていたが、第10戦のドイツGPで大アクシデントに遭遇し、瀕死の大火傷を負ってしまう。しかしラウダは不死鳥の如く1ヶ月後のイタリアGPで復活を遂げ、治りきらない体で4位に入る活躍を見せた。そした王座を決定する最終戦は、初めて開催された日本GPだった。ここでラウダは豪雨で危険との理由でマシーンを降り、タイトルは1ポイント差でマクラーレンのハントのものとなった。
312T2 1976
1970年代に4度のコンストラクターズ・タイトルをフェラーリにもたらした水平対向12気筒エンジンを始めて搭載したのが1970年の312Bだ。車名のBはもちろんボクサー・エンジンを表す。シャシーは前年の312F1を踏襲するが、低重心で高出力のボクサー・ユニットが真価を発揮し、終盤5戦で4勝を挙げる活躍を見せた。 1970年シーズンはロータスに乗るヨッヘン・リントが圧倒的な強さを見せて快進撃を続けていた。一方フェラーリは序盤トラブル続きだったが次第に調子を上げ、ジャッキー・イクスに加えクレイ・レガッツォーニ、イニャーティオ・ギュンティを迎え追い上げていた。そんな中イタリアGPの予選でリントがクラッシュし、ドライバーズ・ポイント主意のまま他界してしまう。残る3戦で2勝するが逆転出来ず、チャンピオンはリントのものとなった。
312B 1970
フェラーリ初のミッドシップF1マシーンがDino 156 F1だ。1961年からの1.5リッター規定に対応して開発され、実績あるディーノV6ユニットを基にカルロ・キティが設計し、この時期フェラーリのアイデンティティだったシャーク・ノーズ・デザインを持つ。8戦中5勝という圧倒的強さを見せダブル・タイトルを獲得した。 2500cc以下の排気量で競われていたF1グランプリだが、1961年から1500cc以下に変更され、各ティームは開発に手間取ることになる。その中にあってフェラーリは、実績あるディーノ・ユニットを投入し、デビュー戦から高い戦闘力を発揮して両タイトルを制した。ドライバーはアメリカ人のフィル・ヒルとリッチー・ギンサー、ドイツ人のウルフガング・フォン・トリップスの3人がレギュラーで起用された。しかしタイトルが決したイタリアGPで、フォン・トリップスがアクシデントで命を落とすという悲しい出来事もあった。
Dino 156 F1 1961
フェラーリF1マシーンの中で異色の存在といえばD50だ。ランチアが製作した車輌を引き継いだもので、当時としては革新的なメカニズムを持つ。最大の特徴はサイドの燃料タンクで、燃料が減っても操縦性が変わらず、戦闘力を高めることに貢献した。この年のファンジオは3勝を挙げチャンピオンに輝いた。 フェラーリと共にグランプリに挑んでいたランチアが送り出した革新的なF1マシーンがD50だ。しかしランチアのエースドライバー・アスカリが不運な事故により死亡したことに加え、経営難のためランチアはプロジェクトを中止してしまう。フェラーリは1955年にフィアットの仲介により6台のマシーンとエンジニアのヴィットリオ・ヤーノを引き取りグランプリに参戦する。当初マイナー・トラブルが続いたが、1956年になると本領を発揮し、ファンジオがマセラティのスターリング・モスを3ポイント引き離し、見事チャンピオンを勝ち取った。
D50 1956
1950年から始まったF1世界選手権に向けて、フェラーリが同年のイタリアGPから投入したのが、規定で定められた最大の排気量を持つ375F1だ。デビュー戦で2位を勝ち取り、翌1951年のイギリスGPでは、F.ゴンザレスが世界選手権での初勝利をフェラーリにもたらし、戦前からの王者アルファ・ロメオに世代交代が近いことを告げた。 1950年から始まったF1世界選手権は、自然吸気4.5リッター以下のマシーンで競われていた。その王者に君臨していたのは、かつでエンツォ・フェラーリがドライバーとして走り、チームを任されてきたアルファロメオだった。その中にあってフェラーリは1951年のイギリスGPでアルファを打ち破り、初優勝を遂げる。レース後エンツォは“私は自分の母親を殺してしまった”と語ったのは、アルファに育てられたエンツォならではの名言。1951年シーズンはアルファに乗るファンジオが王者となるが、アルファはこの年限りでグランプリを去る。
375F1 1951
DyDo フェラーリF1 vol.2
製造 サイズ 全10車種
京商 1/64 DyDo非売品
4年連続のダブル・タイトル獲得を目指し送り出されたのがF2003-GAだ。車名の後ろに付くGAは、近代フェラーリを支え続け、発表直前に他界したフィアット会長のジョバンニ・アニエッリを称えイニシャルを付けたもの。第5戦スペインGPから実戦投入され、高い総合性能を発揮し日本GPでダブル・タイトルを決めた。 F1グランプリをよりコンペティブにするため、FIAは2003年から新たな規定を導入する。その中で最も特徴的なのが一発勝負の予選方式だ。実質1周だけの真剣勝負で、タイムアッタク後決勝までマシーンに一切触れられない厳しいものだった。神経質な性格のマシーンを持つフェラーリ陣営は苦戦を強いられたが、基本性能の高さから5年連続コンストラクターズ、シューマッハは4年連続、通算6勝目という前人未到のワールド・チャンピオンの座を勝ち取った。
F2003-GA 2003
フェラーリのグランプリ・マシーン史上最強の1台がF2002だ。2002年シーズン17戦中15戦を制し(内9回の1-2フィニッシュ)、3年連続ダブル・タイトル獲得に貢献した。メカニズム的にはF2001の延長にあるが、すべての面で磨き上げられ、歴代のマシーンの中でも最もソフィスティケートされた1台と評価されている。 2002年のスクーデリア・フェラーリには、ひとつの目標があった。それはコンストラクターズ/ドライバーズ両タイトル獲得とともに、これまで達成できなかったドライバーズ2位の座も勝ち取り、シーズン完全制覇することだった。フェラーリは開幕戦から圧倒的な強さを見せ、第11戦フランスGPでシューマッハは自身5度目のチャンピオンを決め、第13戦ハンガリーGPでコンストラクターズ・タイトルを早々決めてしまう。バリチェロも4度の優勝を飾りシリーズ2位の座を確かなものとし、フェラーリは完全制覇を成し遂げたのである。
F2002 2002
フェラーリの現在に至るサクセス・ストーリーの原点が1998年にデビューしたF300である。同年からの全幅1800mm、グルーブド・タイヤ規定に対応して開発され、モノコックを始めエンジンまですべてが新開発だった。またシーズン途中から採用された上方排気は、他ティームがこぞって採用するほど優れたシステムだった。 マシーンの速度を押さえるための新規定がスタートした1998年シーズンは、各ティーム共、新開発マシーンの投入を迫られた。フェラーリF300はその素性の良さから、それまでとは格段の進化を遂げ、シューマッハは6勝を挙げるまで戦闘力を高めていた。しかし直接のライバルであるマクラーレンは、総合的にまだ1歩先行しており、最終的にはシューマッハはハッキネンに14ポイント差の2位、コンストラクターズ・ポイントでも23ポイント差の2位でシーズンを終えるのだった。しかしその差は僅かで、王座復活も近いと感じさせた。
F300 M00157 1998
1995年の新規定に対応して製作されたのが412T2である。名前こそ前年モデルを引き継ぐが、その中身は新開発されたものだった。戦闘力は高かったが、マイナー・トラブルが続き、勝利を逃している。カナダGPでジャン・アレジが初優勝を遂げたことは、フェラーリ・ファンの間で今も語り継がれている鮮烈な出来事だった。 速くなり過ぎてしまったF1マシーンの速度を押さえるため、FIAは1995年シーズンから排気量を3リッター以下とし、ダウンフォース削減のためにストップド・ボトム、ディフューザーの短縮などの新規定を導入する。フェラーリは新開発の412T2を投入し、アレジとベルガーで挑むが、耐久性に難があり1勝を勝ち取るにとどまる。1995年シーズンは、ベネトン・ルノーに乗るシューマッハが圧倒的強さを見せ、ダブル・タイトルをもぎ取った。フェラーリはコンストラクターズ3位、アレジは5位、ベルガーは6位という結果に終わっている。
412T2 1995
2年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得したフェラーリが1984シーズン用に送り出したのが126C4だった。しかし、ライバル達の進化に追い付けず、さらにはマシーンの信頼性が低く、タイトル争いに加われないでいた。勝利はこの年から起用されたミケーレ・アルボレートが、ベルギーGPで1勝を挙げるに留まった。 混乱の中で2年連続コンストラクターズ・タイトルを勝ち取ったフェラーリは、新体制で1984年シーズンに挑む。ティフォジ期待の久々のイタリア人ドライバー、アルボレートが招かれ、ルネ・アルヌーとコンビを組むことになる。シーズンが始まるとラウダ、プロストを擁すマクラーレンTAGが異次元の速さを見せ、16戦中12戦を制する。フェラーリは、戦闘力が低く、なおかつ信頼性に欠けるマシーンを改良しながら、コンストラクターズで2位、ドライバーズ・ポイントではアルボレートが4位、アルヌーが6位に入るのが精一杯だった。
126C4 1984
312Tシリーズ最高の成功作が312T4だ。幅広のボクサー・エンジンはグランド・エフェクト構造にとって障害だったが、フェラーリのデザインを担当するピニンファリーナの協力を仰ぎ、空力を徹底的に煮詰める。その結果サイドポンツーンにベンチュリーダクトを設け高い戦闘力を実現させ、1979年シーズンを完全制覇した。 1979年シーズンに向けてスクーデリア・フェラーリは、安定した速さを見せるジョディ・シェクターを招き、ジル・ビルヌーブをともに挑むことになった。用意したマシーンは、おなじみのボクサー・ユニットを搭載するものの、強力なダウンフォースが得られるグランド・エフェクト構造を持つ312T4だった。ライバルに勝るパワーと高い信頼性、そして確実に走り抜くドライバーを武器に、15戦中6勝を挙げると共に3度の1-2フィニッシュを果たし、シェクターがチャンピオンになると共に、ビルヌーブも2位となり、フェラーリは完全制覇を果たした。
312T4 1979
年を追うごとに戦闘力を高めてきた312Bは、新たにコンパクトで重量配分に優れる横置きギアボックスを採用した312Tへと進化する。巨大なインダクション・ポッドが特徴の312Tは1975年第3戦南アフリカGPから投入され、前年スクーデリア入りしたラウダの確実な走りにより、1964年以来のダブル・タイトルを勝ち取る。 1974年にティームに加わった新人ニキ・ラウダの才能と、確実に進化を続けるマシーンを得たスクーデリア・フェラーリは、再びチャンピオン争いに加われるようになっていた。またエンツォ・フェラーリの命で、ティームのマネージャーとして起用された若き日のルカ・モンテゼモーロ(現フェラーリ社社長)の采配も忘れることは出来ない。すべての歯車が完全にかみ合ったティームは14戦中6戦を制し、地元イタリアGPで見事ワールド・チャンピオンを決める完璧さを見せつけた。それはフェラーリにとって1964年以来求め続けていた栄光の座である。
312T 1975
1961年シーズンを圧勝で飾ったフェラーリだが、その後ライバル達が着実に進化を遂げ、もはやアドバンテージは無くなっていた。そこで新たに開発されたのが158F1だった。新設計の8気筒ユニットを搭載し、シャシーも鋼管スペース・フレームにアルミを貼ったセミ・モノコック構造を取り入れ、空力も見直される。名手サーティースの卓越したドライビングにより、ダブル・タイトルをフェラーリにもたらした。 1961年のF1ワールド・チャンピオンを勝ち取ったフェラーリだったが、その後ロータスやBRMが著しい進化を遂げ、1962-63年シーズンは悲惨な結果に終わってしまう。フェラーリは再び王者の座を目指し、バンディーニに加え新たにジョン・サーティースを迎え、より高出力を発揮する8気筒ユニットを持つ158F1を用意する。サーティースは安定した走りでシーズンを闘い、BRMに乗るヒルを1ポイント差で退け、タイトルをものにした。サーティースは2輪と4輪双方でワールド・チャンピオンを獲得した唯一のレーサーとして知られている。
158F1 1964
フェラーリにとって3シーズンぶりに自ら製作したF1マシーンが246F1である。エンツォの子息であるディーノが基本設計に参画したV6ユニットは、新開発の246F1に搭載される。強力なパワーを誇る246F1は、スクーデリアに復帰したマイク・ホーソンの手堅いドライブで1958年のワールド・チャンピオンを獲得した。 1950年代のフェラーリは様々なトライを繰り返した。そのひとつがエンツォの子息であるディーノが病床でV6ユニットの基本コンセプトに参加し、ビットリオ・ヤーノが実現したのが65度のVバンク角を持つディーノ・ユニットだ。当初F2用に1500ccでスタートしたが、最終的にF1用として2500ccまで拡大される。このユニットを搭載したのが246F1で、ディーノ246F1と呼ばれることもある。ホーソンは優勝こそ1回だけだが、確実にポイントを稼ぎ1958年のワールド・チャンピオンに輝いたが、コンストラクターズでは惜しくも2位に留まった。
246F1 M00408 1958
1954年からの2.5リッター規定に先立ち、1952年から2年間は暫定処置としてF2マシンでグランプリが戦われることになる。フェラーリはランプレディが開発した直列4気筒2000ccユニットを使った500F2を製作。車名の500は1気筒当りの排気量を表わす。軽量で高出力な500F2は高い戦闘力を武器にシーズンを制した。 万全の体制で迎えたフェラーリの1952年シーズンは、他ティームが新車の開発が間に合わず、実質的にライバル不在の状態だった。スクーデリアはアルベルト・アスカリ、ジュゼッペ・ファリーナ、ピエロ・タルフィらに500F2のステアリングを託す。圧倒的な戦闘力を誇る500F2を駆り、アスカリが8戦中6勝を得るという完璧な強さを見せ、ワールド・チャンピオンを獲得した(コンストラクターズ・タイトルは1958年から実施)。そして、この勝利は1950年のモナコGPからグランプリに挑んでいたフェラーリにとって初の栄光となったのである。
500F2 1952




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