セブンイレブン
44台
ベストミュージアム スカイライン&フェアレディ 20台
スーパーカーコレクション 24台



セブンイレブン限定
ベストカーミュージアム スカイライン&フェアレディ 全20種類
BestCar MUSEUM SKYLINE&FAIRLADY
期間:2004年1月末頃〜
内容:セブンイレブンにて缶コーヒー(GEORGIA、FAIR、WONDA、UCC、BOSS)のおまけとして付いてきた。
期間中、セブンイレブンで車雑誌「ベストカー」を購入した人に特別企画あり。
ダイキャストミニカー全20種類まとめて500名様にプレゼント!
ベストカー2月26日号(1月26日[月]発売)付録のステッカーに付いている専用応募はがきを切り取り応募すると、抽選で ベストカーオリジナルディスプレイケース付き「ベストカーミュージアム スカイライン&フェアレディ」当たる。車のラインナップ&カラーは同一。
来夢音の購入記
これさえそろえれば、スカイラインとZはもういらない?

スカイラインDX
シALSID-1)
1957年(昭和32年)
富士精密工業
GA30型1484ccの直列4気筒OHVエンジンを搭載。当時としては外車にもあまり採用されていたなっかたバックボーントレー式フレームを採用。最高出力60馬力、トルクは10.75kgm、最高速は125km/h。スカイラインと名づけられた最初の車。DXの価格は当時120万円もしたが時計やヒーター、ラジオまで標準で装備されていた高級車。1960年マイナーチェンジでは国産初の4灯式ヘッドライトが採用された。

スカイラインスポーツクーペ
BLRA-3(R21A)
1962年(昭和37年)
プリンス自動車工業
イタリアのデザイナー、ジョバンニ・ミケロッティの作品。ボディはアレマーノが担当した。1960年のトリノショーに出品された。クーペとコンバーティブルの2タイプ発売され、クーペ35台、コンバーティブル25台しか生産されなかった。GB4型1862ccの直列4気筒OHVエンジンを搭載。最高出力94馬力、トルクは15.6kgm。クーペの価格は185万円、コンバーティブルは195万円だった。

スカイライン2000GT
S54
1964年(昭和39年)
プリンス自動車工業
スカイラインに初めてGTの名が与えられたS54はこれまでの4気筒エンジンとは異なり、G7型直6OHCエンジンを搭載した。そのため、フロント部が長くなったスタイルは「カッコイイスポーツカー」として人気を博した。また、型式番号から親しみを込めて「ゴーヨン」とも呼ばれた。まさに、羊の皮を被った狼でスカイラインの伝説の始まりだった。

スカイライン2000GT-R
PGC10
1969年(昭和44年)
日産自動車
3代目スカイラインはニッサンとプリンスが合併された後の68年に発売されたが、プリンスR380に搭載されたレーシングエンジンkGR8型直列6気筒DOHC24バルブエンジンをデチューンしたS20エンジンを搭載したモデルがGT-Rだ。160馬力、18.0kgmのパワー、トルクを発生するモータースポーツのために作られた究極の4ドアセダンといえる。ツインチョークのソレックス40PHHキャブレターを装備し排気量は1989cc。

スカイラインHT2000GT-R
KPGC10
1970年(昭和45年)
日産自動車
セダンに比べ70mmホイールベースを短くし運動性能をアップさせ、S20エンジンを搭載したGT-Rは、リアにはブラックアウトされたオーバーフェンダーが装備され、よりスポーツ度を増した。多くのレースシーンで活躍し、神話になりつつある栄光の通算勝という輝かしい成績を挙げた。CMでは「愛のスカイライン」と呼ばれ、形が箱型だったため「箱スカ」という名称で親しまれた名車だ。当時の価格は150万円だった。

スカイラインHT2000GT-R
KPGC110
1973年(昭和48年)
日産自動車
CMに登場したモデル、ケン&メリーから「ケンメリ」の愛称で呼ばれた4代目スカイラインにS20エンジンが搭載されたのは73年の1月。しかし、公害問題やオイルショックなどにより、S20は排気ガス規制の波を乗り切ることができず、わずか4ヶ月でその姿を消したのだった。レーシングモデルも製作はされたが、サーキットを走ることはなかった。197台が市販されたのみ。

スカイラインHT2000
ターボGT
HGC211
1980年(昭和55年)
日産自動車
「ジャパン」の名前で親しまれた5代目スカイラインは77年に登場。排気ガス規制などで狼の牙を抜かれてしまったGTだが、マイナーチェンジ後の80年にターボエンジンを搭載したモデルが登場した。L20ET型直6DOHC1998ccエンジンにターボがプラスされ、パワー&トルクは145馬力、21.0kgmを搾り出した。ハイパワーなスポーツモデルを望んでいたスカイラインファンには嬉しいモデルだった。発売当時の価格は165.8万円。

スカイラインHT2000 RS
DR30
1981年(昭和56年)
日産自動車
5代目スカイラインに希望のツインカムエンジンを搭載したスポーツモデルが登場。排気量1990cc、パワー&トルクは150馬力、18.5kgmを発生した。83年にはターボが与えられた190馬力のターボRSが追加される。さらに、マイナーチェンジされた後はフロントマスクが仮面を被ったようなフェイスリフトを受けたため、その姿から「鉄仮面」との愛称で親しまれた。CMにポール・ニューマンを起用したため「ニューマンスカイライン」とも呼ばれていた。

スカイラインスポーツクーペ
GTS-R
HR31
1987年(昭和62年)
日産自動車
85年にフルモデルチェンジを受け、スカイラインは7代目となる。7代ということから「セブンス スカイライン」という愛称で呼ばれた。ケンメリGT-R以来途絶えていたDOHC24バルブ6気筒エンジンが復活。翌年、24バルブツインカムにターボがプラスされた180馬力の2ドアスポーツクーペGTSツインカム24Vターボが登場する。14年ぶりにスカイラインにRが与えられたが、GT-RではなくGTS-Rと名づけられた。

スカイラインGT-R
BNR32
1989年(平成元年)
日産自動車
昭和から平成に変わる激動の89年に8代目スカイラインは登場した。5月に新型車が登場したが、3ヵ月後に待ちに待ったGT-Rが16年半ぶりに復活した。搭載されたRB26DETTエンジンは2.6L直6DOHCのツインターボ。280馬力、36.0kgmものパワーをアテーサET-S4WDで駆動する。軽量化のためアルミ製のボンネットとフロントフェンダーを採用するなど、全てが走りに振られた本格派スポーツカーの誕生だった。モータースポーツでも大活躍した。

スカイラインGT-R
BCNR33
1995年(平成7年)
日産自動車
93年にフルモデルチェンジされた新型車が登場してから遅れること1年半、95年1月にやっとR33GT-Rが登場した。R32GT-Rよりボディサイズが大きくなり、精悍さは失われたが、各部のリファイン、トルクアップ、アテーサE-TS採用などにより走りはさらに磨きがかけられ、国内最強のグランドツアラーといわれた。2568ccのRB26DETTエンジンは280馬力、37.5kgmを発生。Vスペックの価格は529.0万円だった。

スカイラインGT-R
BNR34
1999年(平成11年)
日産自動車
97年5月、スカイラインも10代目となるフルモデルチェンジを受けたが、GT-RだけはモデルチェンジされずR33GT-Rが販売され続け、ニューモデルが登場したのは99年の1月だった。RB26DETTエンジンはツインターボ搭載で、トルクはシリーズ最高の40.0kgmを発生。ゲトラク製の6速マニュアルミッションやブレンボ製ブレーキ、可変式リアウイングなどを装備した史上最強のマシンの登場だった。GT-Rは499.8万円、Vスペックは559.8万円。

スカイラインクーペ350GT
CPV35
2003年(平成15年)
日産自動車
2001年の東京モーターショーにおいてニューGT-Rがお目見えしたが、あくまでもショーモデルということでファンが期待するも発売されることはなかった。しかし、2003年1月、2ドアクーペモデルが登場。3.5L DOHCエンジン搭載のスペシャルティーカーは280馬力、36.3kgmのパワー&トルクをたたき出すが、残念ながらスポーツカーではない。が、2003年のモーターショーで日産のカルロス・ゴーン社長が「2007年に新生GT-Rを売る」と発表。狼は暫くの眠りについたのだった。

ダットサンスポーツ
DC-3
1952年1月(昭和27年)
日産自動車
戦後初の国産のスポーツカーだが、フレームやエンジンなどの主要なパーツはトラックからの流用で、これにオープンのボディを乗せただけ。しかし、まさにフェアレディの原点といえる車だ。搭載されたD10型エンジンは直列4気筒SV(サイドバルブ)で860cc、パワーは20馬力、トルクは4.9kgmと非力で、最高速も70km/hほど。生産計画は50台だったが25台しか売れなかった。

ダットサン・フェアレディ
SPL212
1960年(昭和35年)
日産自動車
ダットサンスポーツS211型の発展型として1960年に発売されたSPL212型は、シャシ、エンジンをブルーバード1200と共用した輸出用モデルとして開発された。この車を見た当時の社長がブロードウェイで見て感激した「マイ・フェアレディー」にちなんで「フェアレディ」と名付けた話は有名。1189ccのE型エンジンは直列4気筒OHV、48馬力、8.4kgmを発生。ちなみにSPLのLは左(left)ハンドルのLを表している。

フェアレディ2000
SR311
1967年(昭和42年)
日産自動車
エンジンは130P型セドリックに搭載されていた1982ccの直列4気筒、OHVのシリンダーヘッド部分を大幅に改良。SOHC化し、燃焼室もウエッジタイプ。クランクシャフトのメインベアリングも5個に増やされ、圧縮比も9.5にアップし、大幅に改良されたU20型エンジンを搭載。44PHHのツインチョークのソレックスキャブレターを2基与えられたU20は145馬力、18.0kgmを発生し、オーバードライブ付き5速ミッションの搭載もあり、当時の国産車の中ではトップクラスの性能を発揮。最高速205km/h、0〜400m15.4秒は驚異的といえよう。

フェアレディZ
S30
1969年(昭和44年)
日産自動車
ロングノーズ、低いシルエット、そしてファストバックスタイルを持ってZは生まれてきた。開発コードネームの「Z」をそのまま車名に取り入れ、2Lストレート6エンジンL20は、2連装SUキャブレターを得て130馬力、17.5kgmを発生。サスペンションはマクファーソンストラットを採用する2シータースポーツカーだ。さらにZにはスカイラインGT-Rに搭載されていたツインカムDOHCエンジン、S20を搭載したZ432モデルがある。4バルブ、3キャブレター、2カムのそれぞれの頭を取って432と名付けられた。Z432は当時185万円だった。

フェアレディ240ZG
HS30
1971年(昭和46年)
日産自動車
輸出専用だった2.4LのL24エンジンを搭載したモデルは、G(グランド)ノーズとよばれたFRP製のノーズコーンとライトカバー、前後のオーバーフェンダーが特徴だ。ボア、ストロークを拡大して2393ccにしたL24はツインのSUキャブレターにより150馬力、21.0kgm、最高時速210km/hもの性能を発揮した。なお、240はZ、Z-L、ZGの3グレード用意されていた。

フェアレディZ 300ZX
Z32
1989年(平成元年)
日産自動車
1978年ZはS130型にモデルチェンジ。さらに1983年にはZ31にフルモデルチェンジされ、エンジンも直6からV6にチェンジ。2L、3Lエンジン共にターボがプラスされる。また、1985年10月にはRB20DET搭載モデルも登場。4代目Z、Z32は昭和が平成に変わる1989年に誕生する。ボディは2シーター、コンバーティブル、2by2の3タイプ用意され、エンジンはV6の3L、DOHC、24バルブにターボ付き280馬力、39.6kgmとターボなし230馬力、27.8kgmの2つ。

フェアレディZ
Z33
2002年(平成14年)
日産自動車
1999年のデトロイトショーにおいて、アメリカ日産がニューZカーのコンセプトカーをショーモデルとして出品。実際にニューZが姿を現したのは2001年のデトロイトショーだった。その後36回東京モーターショーにて展示されるも販売は2002年の7月からだった。エンジンはVQ35DE、3.5LのV6DOHCエンジンを搭載。パワー・トルクは280馬力、37.0kgmを発生。ボディは2シーターのクローズドモデルだけだったが、2003年にオープンボディのロードスターが追加される。



セブンイレブン限定
スーパーカーコレクション
12車種×2カラー 全24種類
Super Car collecrion
期間:2005年1月31日〜
内容:対象缶コーヒー(GEORGIA、WONDA、BOSS、FIRE、UCC)1本に1個プレゼント
来夢音の購入記
今にして思うと、フェラーリでこのサイズのミニカーはレア!?かもしれませんね。これをコンプ
しようとしたけれど、途中で断念。。。ダブリすぎ。ヤフオクにてGET。


LP400の登場から10年目、カウンタックは第二世代というべきLP500に進化する。400から500への数字の変更は、V型12気筒エンジンの排気量が4Lから4.8Lへ拡大されたことに伴うものだが、これは単なる増量ではなかったlその改良を手がけたのは、マセラッティで長く主任設計者をつとめていたジュリオ・アルフィエーリだったからだ。彼は3年後、このエンジンを4バルブのクアトロヴァルヴォレ(455PS)に発展させる。
Lamborghini Countach LP500 ランボルギーニ カウンタック LP500
1982年(イタリア)


ベルトーネの工房の中で作られていた最初のショーモデルが初めて建物の外へ押して出された時、先代の社長、ジョヴァンニ・ベルトーネは思わず、「カウンタック(なんてすごいんだ!)」と言ったという。ランボルギーニはそれまで闘牛に関する言葉を車名に選んでいたが、この車はそのひと言が名前となった。そして長く生産される代表作となった。デザインはガンディーニの意欲作。縦置きにされたV12エンジンは3929cc、375PS。
Lamborghini Countach LP400 ランボルギーニ カウンタック LP400
1974年(イタリア)


ランボルギーニというスーパースポーツカーは、フェルッチオ・ランボルギーニのフェラーリへの対抗心から生まれ、ミウラはその代表作。ランボルギーニ社のエンジニアたちが夢を描いてシャシーを製作。それを見たデザイナーであるベルトーネがボディデザインを手掛け、世界の少年たちに大きな夢を与えた。V型12気筒エンジンは横置きのミッドシップ配置、3929cc、375PS。
Lamborghini Miura ランボルギーニ ミウラ
1967年(イタリア)


創立者フェルッチオ・ランボルギーニは、フェラーリに対抗すべき高性能GTカーを世に送り出したが、レース活動には一切手を出さない姿勢を貫いた。そこでランボルギーニ社のテストドライバーを務めていた ボブ・ヴォレスが、1970年に会社の非公式プロジェクトとして、軽量化を図ったランボルギーニ ミウラを密かに作り上げた。これがイオタを呼ばれるモデルで、透明カバーがついたヘッドランプ、ノーズスポイラーで区別される。
Lamborghini Jota ランボルギーニ イオタ
1970年(イタリア)


フェラーリが最初にディーノの名を与えたマシーンはV6気筒エンジンのレーシングカーだった。V型12気筒こそフェラーリと考えるエンツォ・フェラーリに対してV型6気筒を提案したのが、その息子アルフレディーノ、愛称ディーノであった。そのことからV6を備えた生産車にも、病気で早逝したディーノのサインからとったエンブレムとともに、ディーノの名がついた。ミッドシップ配置のエンジンはV型6気筒、2418cc、195PS。
Ferrari Dino フェラーリ ディーノ
1969年(イタリア)


フェラーリディーノ246GTが新型車への世代交代の時期を迎えた時、1973年にまず登場したのは、ディーノ308GT4 2+2。ミッドシップに横置きされたエンジンはV型6気筒からV8気筒に発展していたが、2+2のボディはベルトーネデザインのスクエアなものだった。2年後、ピニンファリーナによるデザインの308GTBが登場し、ディーノの名前は消えていたが、これこそ新世代のディーノ246GTと認められた。V8エンジンは2926cc、255PS。
Ferrari 308GTB フェラーリ 308GTB
1975年(イタリア)


1976年に登場した、フェラーリ365GT/BBの発展型。365の車名はエンジン1気筒当りの排気量からとられていたが、512BBでは水平対向12気筒エンジンの排気量が4.4から5Lに拡大されたこともあって、その数字と12というシリンダー数を組み合わせたものに変更された。外観上はボディのサイドシルに設けられたNACA型ダクトと、3連から2連となったテールランプで区別されるl最高出力は360PS、後に燃料噴射が付いて380PSになる。
Ferrari 512BB フェラーリ 512BB
1976年(イタリア)Ferrari


フェラーリ デイトナの後継モデルとして生み出された1970年代のフェラーリ最高性能車。デイトナでは4.4LのV型12気筒エンジンをフロントに置いていたのに対し、BBでは水平対向12気筒としてミッドシップマウントに変えた。ボディデザインはトリノのピニンファリーナ、実質的にデイトナと同じレオナルド・フィオラヴァンティの手によるもの。やがてガンティーニ デザインのカウンタックと終生のライバルとなる。エンジンは380PS。
Ferrari 365GT4/BB フェラーリ 365GT4/BB
1977年(イタリア)


ワインの名産地でも、ごく稀に格別の名品が生まれることがあり、それをヴィンテージイヤーとして区別する。ポルシェ911の長い長い歴史にそれを当てはめれば、1973年のカレラこそ、格別の名品と呼ばれるにふさわしい。レスポンスとパワーに優れたエンジン(2687cc、メカニカル インジェクション、210PS)を積み、軽量化したボディとリアスポイラーを組み合わせることで、身軽で加速の良い、稀代の911が生み出されたのだ。
Porsche 911Carrera ポルシェ 911カレラ
1973年(ドイツ)


それまでは「鋭く、機敏で、目の覚めるような加速」などといわれていたポルシェ911の性能に、新たに「豪快な」という言葉がつけ加えられたのが、1975年登場の930ターボ。すでに第二次世界大戦中の航空機B29などに用いられていたターボチャージャーをエンジンに組み合わせたもので、2994ccの排気量から260PSのパワーを発した。ターボが効き始めてからの加速は、実際に豪快そのもので、極太のリアタイアとフェンダーも迫力を与えた。
Porsche 930Turbo ポルシェ 930ターボ
1975年(ドイツ)


ミッドシップエンジン配置を、ロータスはレーシングカーに早くから採用した。そして1960年代の後半には、ロータス エランに替わるべき主力スポーツモデル、ヨーロッパにそれを採り入れている。ボディの構造はエランと同じ仕組みで、スチールのバックボーンフレームにプラスチックのボディを接着する。エンジンは当初ルノー16の4気筒(80PS)を用いていたが、後にツインカムユニット(105または126PSを選択できた)に載せ換えられた。
Lotusu Europa ロータス ヨーロッパ
1973年(イギリス) M02637,M02638


ロータス ヨーロッパの後継車。ランボルギーニ カウンタックの登場と同じように、エスプリも幾度か改良を加えながら、スポーツカーとしては極めて異例の25年以上という長寿を保つこととなった。エスプリS1はその初代のモデルで、ジウジアーロの手がけたボディが鋭いエッジと平面に近い面で構成されているところから、1970年代という時代が感じ取れる。ヨーロッパと同じく、ミッドシップに縦置きされたエンジンは、4気筒1973cc、16バルブ、160PS。
Lotusu Esprit S1 ロータス エスプリ S1
1975年(イギリス) M02639,M02640